国産旅客機の系譜
世界が注目のホンダジェット原点は零式戦闘機にあり。日本の航空技術は死なず。
Yahooブログ(2018年8月)の再掲 三菱MRJについては更新
本稿の論点を理解して頂く為には、日本の航空機工学の歴史をおさらいすることが不可欠です。 上図は画面クリックで拡大可能。
戦前・戦中の事情と背景
ゼロ戦で代表される帝国海軍の戦闘機は飛行性能に優れ、太平洋戦争の空中戦では敵機を凌駕した。 しかし、守りには弱く、被弾すると簡単に墜落した。 攻撃優先主義(スピード、旋回・上昇下降の3D性能)の設計は軽量化の徹底であり、装甲は無いに等しかった。
一方、対するグラマン戦闘機は人命(パイロット)重視、防御に力を注ぎ、結果、機体は重くゼロ戦に比べ動きは鈍かった。 「パイロット第一主義」は、必ずしも、アメリカが人道主義国家だからではなく、経済が大きな理由だった。 どういうことかと言うと、一人のパイロットを一人前に育てる為には億単位の金と数年の時間がかかる。たとえば、被弾してパラシュートで脱出したパイロットには全力で決死の救出を試みる。 救出ための費用や人員を惜しまない。 朝鮮戦争からベトナム戦争にも引き継がれた米軍の伝統でもあった。 日本軍とは大違い。 戦争末期の日本、パイロットは戦死でいなくなった。少年兵を特訓して急造のパイロットにした。 彼らは全員、片道飛行の特攻で雲の彼方に散っていった。
終戦となり、GHQは日本の航空機産業を全面的に禁止した。 大学の航空工学科も廃止された。 航空関連の技術者や研究者を含む多くの人たちが失職した。 朝鮮戦争が始まると、米軍機の修理やオーバーホールの仕事があるにはあったが、米軍技術将校や出向軍属の命令や指示通りに働く奴隷だった。 それを我慢できない人たちが多くいた。 その一人は東大教授だった糸川先生、オモチャのようなペンシルロケットを一部から揶揄されながら黙々と作り続けた。 それは今の日本の宇宙ロケットに繋がり、小惑星探査機ハヤブサが小惑星「イトカワ」から回収した微粒子とともに地球に帰還した。
電気メーカーでは扇風機の改良にプロペラの技術を役立てようと努力する者、来るべき家電時代に備えて「ハコモノ屋=ブリキ屋」になった人々もいた。 洗濯機や冷蔵庫の箱は、飛行機の胴体に通じるという感覚だった。 一方、本田宗一郎は旧陸軍の小型無線機エンジンを改良して自転車に取り付けた。これを機に、元航空エンジンの技術者が本田の下に集まった。 小型・軽量・高性能エンジンは大得意だった。 他のバイクメーカーも刺激を受け、やがて日本のオートバイは世界的なブランドとなった。
次は自動車を考え始めた。それを聞いたアメリカはオートバイ屋が自動車の何が出来ると嘲笑した。 富士重工(旧・中島航空機)、三菱重工、日産自動車にも元航空技術者は大量にいた。 彼らは小型車の製造に関心があった。
小形車は当時の日本の経済事情や道路事情からの市場予測だった。 そして国産マイカー時代が訪れた。 軽量小型車は軽量高性能のゼロ戦と重なる要素が多かった。
豊田自動車は、自動車大国アメリカに売り込む戦略を本格化した。 他のメーカーも続いた。 米国では1家庭に複数台の車、奥さんも、大学生の子供もマイカー。日本もそうなりつつあった。 さらに、OPECの原油統制やCO2環境問題が小型自動車の追い風となり、V8エンジンのアメ車は米国でも悪となった。 かくして、ホンダ・アコードで代表される日本製の小型・中型車が国際市場を席捲するようになった。
アメリカ車は売れずデトロイトは衰退した。 米国の自動車業界は日本を恨んだ。 しかし、それは、そもそも、日本占領統治のアメリカの失敗だったのである。 すなわち、 航空機産業禁止→日本は代わる活路を求めた→バイク→小型自動車 の流れだった。 アメリカは日本の底力を舐めていた。
流れは終っていない。ホンダは小型ジェット旅客機を開発していたのである。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180722-00230266-toyo-bus_all より抜粋 ↓ 小型ビジネスジェット機の新星として2015年12月に登場したホンダの「ホンダジェット」。最高速度や燃費性能、静粛性などでライバル機を圧倒する。・・・・2017年には小型ジェット機のデリバリー(顧客への納入数)で首位に踊り出た。 ジェット機業界からは、最初は「自動車屋に何ができる」と無視された。(かつて自動車に進出するときは、「オートバイ屋に何ができる」と言われた。) 少し評判が上がると「アメリカでは通用しないよ」、航空機の製造認定が近づくと「認定取れるわけないよ」と、いざ取れそうになると「絶対取れるわけない」といってホンダのお客さんの不安をあおる。認定を取ったあとも、「認定は取ったが安心できない」と・・・・・・。 三菱関係者のコメント:今はとにかく、批判を1つずつ潰していくしかない。どんな世界でもそうだが、一番になると抵抗勢力がなんとか阻止しようとしてくる。 参考コラム それ以前の戦後・国産旅客機 ●YS11 戦後の航空機製造禁止が1950年代に解除され、官民共同出資の「日本航空機製造」が開発したプロペラ機。開発には、ゼロ戦の堀越二郎氏、飛燕(ひえん)の土井武夫氏、2式大艇の菊原静男氏、隼(はやぶさ)の太田稔氏と、戦時日本の名機の設計者たちが協力した。1964年の東京五輪で全日空が聖火の輸送に使うなど戦後復興の象徴となり、各地の旅客便や海上保安庁で活躍し、182機が造られたが、採算が取れず1973年に生産を終えた。 エンジンはロールスロイス社製、ターボプロップは時代遅れだった。 また、操縦系統は手動でパワー操縦桿ではなかった。これも時代に逆行した。 YS11の失速の原因としては他にも、官が主導だったので、慣れない売り込み営業活動にも問題があったと言われた。 ● 三菱MRJ トラブル続出 不透明な先行き 日本にとって久しぶりの民生用量産航空機となる中距離ジェット旅客機。 当初は中国やアメリカの市場などへの大きな期待。しかし、トラブル続出で米国の認可が下りない。今回は5回目となる納入時期の遅延が発表になった。これで納入時期は、2018年半ばとなり、当初日程から5年以上の遅延となる。 詳しくは「三菱MRJ]で検索。 最新の悪いニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamuratomohiko/20190531-00128095/
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