変な日本語(9)
夏の甲子園、強豪高もまさかの敗退。
試合後のインタビューで主将の子いわく
「口惜しくないと言えば嘘になります」
なぜ、シンプルに
「口惜しいです」ではないの?
「・・・と言えば嘘になる」
という言い回しは誰が最初に使った?
昨今、多く耳にします。
たとえば、政治家や官僚は「反省します」ではなく、
「反省しないと言えば嘘になります」
毎度のことで聞き慣れました。
しかし、 高校生の「・・と言えば嘘になります」発言は
どこか違和感があります。
他にも、昔は聞かなかったが、近年いつのまにか普通に使われている表現が多くあります。
たとえば、
「元気をもらった」「勇気をもらった」など「・・・もらった」です。
「元気づけられた」「勇気づけられた」などの日本語があるのに、
なぜでしょうか?
私はへそ曲りの捻くれ者かと思っていたら、同じ思いの人が世間に少なからずいることを知って安心しました。
YAHOO知恵袋
に多数の意見や見解が書いてあります。 その中から二つの例を下に抜粋しました。 両者とも、何故そのような言葉の変化が起こったか? についての考察や分析も書かれていて、「なるほど」という読後感です。
- よくある言い回しに「元気をもらいました~」とか「勇気をもらいました~」とかいうのがありますが、あれってムカツきませんか?
そもそも元気や勇気は人からもらうものではありません。皆さんいかが思われますか?
私は「他力本願」な人間ではなくありたいと思っています。ですから、従来から元気や勇気は自らの意志と意思で自ら生み出していますし、きっとこれからもそうします。 自分の中から生み出された元気と勇気のみが本物の元気や勇気だと信じて疑っておりませんので、自分以外の人間からもらうことはあり得ません。
- 質問者さんのおっしゃる言い回しがはやる前は「~で元気が出た」「~で勇気が出た」という言い方をしていました。その時には全く違和感を感じませんでした。
同じように違和感を感じるものに「感動をありがとう」という言い回しがあります。「感動した」でいいと思うのですがね。
自分のよろこびを直接表現するより、誰かのおかげでよろこびや元気があるといった方が受けがいいという風潮は、出る杭は打ってやろうという社会の雰囲気を感じます。
似たような風潮は「~させていただきます」という言い方が蔓延していることと関連しているように思えます。「わたしは自分の意思で~をします」というのを避けようとしているように見えます。
問題は「謙譲の美徳」が社会にあふれているのではなく、「謙譲の美徳」を要求しているということだと思います。
自身の感情や意志を直接表現するのを抑える表現がはやるのは、日本全体が内向きになっていることと関連していると思えるのです。
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