「もののあわれ」とは何か?

縁があって旧Yahoo掲示板「大和心」の山櫻花さんと知り合いになり、

大和心や漢意(からごころ) について教えて貰い勉強しました。

 

字から万葉仮名を経て「ひらがな」文化が平安時代に花開き、その過程で「もののあわれ」という日本独自の概念

も生まれた。 そして江戸時代の本居宣長は源氏物語がその代表であり象徴と評したそうです。

 

「もののあわれ」を

「もの」+「の」+「あわれ」

と筆者は分けて考えてみました。

 

まず「の」ですが、すなおに、現在も日常的に所有を表す字とします。 

古文の「あわれ」には様々な意味が有りますが、ここでは、単純に「哀れ」としておきます。

以上の前置きの上、 図のようなイメージを考えました。

説明します。

観察者である一人の人間を想定します。 周りには花鳥風月の自然や他の人間がいます。

人には想像力があります。 その想像は観察者の精神世界で決まります。

しかし、その内的な根源は、人みんな、共通・共有ではないでしょうか。言い換えると、人の精神世界には不変の何かがある。 

それは物ではない心の中の何かです。

人も花鳥風月も万物ははかなく永遠でない、それは悲しく切ないこと。

観察者の想像は周りの人や物にも投影される。 こうして、観察者は自身も含めて万物を俯瞰する。 自分が哀れと感じること

は、周りの花鳥風月や人も同様に感じている、と信じる。これが「もののあわれ」 かもしれません。

 

時間も「もののあわれ」の重要な要素です。 時間変化すなわち「時のうつろい」です。

たとえば、古人が見た同じ朝日に 桜の景色を見て同じ感動を味わうこと、つまり、古人と親しく接し、古人の身になり、共感する

事もあります(山櫻花さんから引用)。

たとえば、

「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」  千載集

このモチーフは、多分、詠み人=観察者の心も花鳥風月も昔と変わらない、ということなのでしょう。

 

しかし一方、和歌の世界では

「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり 」

という一首があります。 

周りに何か変化が起こって自分の心は昔とは変わった、

「時の移ろい」による変化の受け入れで、これも「もののあわれ」の大きな側面

のようです。 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です